スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

木蓮

mokurenn
毎年ちゃんと咲いてくれる、一番のお気に入りの木蓮。我が家のシンボルツリーになりました。
1.5メートルの苗木を植えてから8年目です。
何十年も前の事。初めて就職し、慣れない仕事にただただ追われていた頃、上司が明るさとチャレンジ精神旺盛な私を評して例えてくれた花、それが白木蓮でした。
それが木と分かって、可憐な花ではないな、と想像していましたが、春一番に咲く白い花はよく目立つ。ああ、春が来たかと教えてくれるそうです。
いろんな種類がありますが、あえて大きな花を付けるクリーム色の種類を植えました。
やっぱり目立ちたがり屋・・・

110414_083104.jpg
地震があり、ゆっくり花見も出来ませんでしたが、庭の花が心を癒してくれました。

今日は花もほとんど散り、そろそろ葉っぱが出始めました
スポンサーサイト

避難所

友人夫妻が去った後、避難所開設の噂が耳に入りました。
今朝は、何かしなくちゃという思いに駆られ、目が覚めました。


避難所となっている県南体育館に赴くと、避難受付、ボランティア受付などきちんと区分けされ、整然とした中にも人々が打ち合わせに余念がありませんでした。

市が3度の食事を手配し、温泉などの入浴も出来ています。
衣類やその他は、3連休の間に市内の幼稚園のママトモグループがメールを駆使し、たくさんの支援が集まったそうです。
体育館を見せてもらいましたが、物資やボランティアは十分に事足りている様子でした。

避難した方々は、2階の柔道場(畳部屋)に寝泊りされ、暖房も効いています。


強いて言えば、赤ちゃんもいるので、軟水のペットボトル、ポンプ式のシャンプー、ボディソープくらいが足りないという事です。

娘が退職祝いにくれたお祝いは、それらの物資に使わせてもらうことにします。


当初300名ほどの避難された方も、今は会社が再開したり、知人宅に行かれたりして半分以下になっているそうです。
3月16日から開設され、4月一杯受け入れているとのことです。
医療費も条件付ですが、免除されていますし、日常を一日も早く取り戻せるよう祈りつつ、この小山の地で身体を少しでも癒していただきたいものです。







38年間 お仕事ご苦労様

110328_070018.jpg
我が家の主は震災の日が退職式でした。勿論中止。
日曜日にJUNKOさん夫妻と一緒に、北海道から届いたジンギスカンで祝ってあげました。
花束と鍬と作業ズボンを贈られ、緊張気味。私は自治会での活躍を願って、会合向けのポロシャツ。
そして子供たちから贈られた色紙を受け取り、ケーキのロウソクを吹き消しました。



110401_132452.jpg
31日は退職日、大きな花束を贈られ、会社を後にしました。
そこへ、電車に乗る前に読んでくださいと、メモ用紙に挟んで手渡された物は・・・
いつも気苦労を掛けさせられたという、某部下の粋な計らい。。
毎日1時間半かけて通った労を労うグリーン券でした。

110331_202347.jpg
近所のレストランで慰労の夕食。最後のデザートをパチリ。

避難びとの夫妻の日常

110312_130853.jpg
非常食を作って、停電や余震に備えました。  腹が減っては戦はできぬ・・・昔の人は言いました。


ご近所の友人が衣類や差し入れを持って来てくれたり、ありがたい事しきり。

16日からは病院やら検査やら、気になることを片付けて行きました。

余震が来るたびに飛び出せるよう、逃げられる体制の服装と、荷物をまとめていました。寝るときも勿論です。
私も避難セットを作りました。それほど余震が続いたのです。

一番印象的だったことは、携帯が被災地と繋がりだし、一日の半分が電話やメールが鳴りっぱなしです。アメリカや外国の友人からも電話が入り、JUNKOさんはしゃべり続けていました。
状況がつかめないがために、皆は亡くなったものと思い、泣いていたと・・・



18日、地獄の釜の蓋を開けると嫌う、お彼岸の入りに、種蒔き実施。(地獄の釜の蓋開いたじゃないのとつぶやきながら・・・)
この地では農家の人は、お彼岸の最中は畑には一切触りません。

天候が不順で、遅霜にやられたり、弱い苗になったり病気になったり、畑仕事は避けたほうが良い時期と捉えていました。

翌日からご主人は自分の作った畝の点検補修に勤しんでいました。


3連休から少しずつ元気を取り戻したJUNKOさんは、我が家のお掃除ボランティアを開始。
家中の気になるあそこやここが、毎日毎日ピカピカになって行きます。
避難民がボランティアって、ここでも活躍しているね・・・などと冗談も飛び出し。。


蒔いた種も順調に発芽し、春はちゃんと来る事を実感。

放射能汚染の野菜などが話題になり、畑の野菜や摘んだナバナも泣く泣く捨て。。
発表前のものはずいぶん食べたけど・・・


お家はピカピカ、野菜も洗えば大丈夫という判断をし、JUNKOさん夫妻は我が家の避難所を後にしました。










地震  その後2

避難して来た友人夫妻の居る時は、ブログを開く余裕がありませんでした。
本当は、被災地の状況がつぶさに入るJUNKOさんの電話を元に、実況したかったほどです。


電話も電気も繋がらない状況で、頼りになるのは、周囲の状況判断と、家族にたまたま繋がる携帯電話の「逃げろ」という叫びにも似た近所のご主人の声、とかだったそうです。


一番放射能被害が強く出ている地区の我が家を思い、溜息をつく友人に声のかけようがありませんでした。
その地は原発を誘致してはいませんが、隣町。
特別な優遇措置も受けていたわけでもなく、地震津波の被害もさほどでなく、ただただ、原発で自宅へ帰ることを許されていません。

ご主人の会社はその地の工場に多額な投資をして、拡大したばかり。
いつ戻るとも予見できるはずもなく、かと言って会社も、住まいを用意してまで他の地に勤務させる体制も整わず、不安は尽きません。

しかしながら、不幸中の幸いというべきか、15日未明の原発の爆発はその「逃げろ」の携帯電話から情報を得たことで、深夜のうちに避難して来れました。

津波から逃げ、原発から逃げた友人夫妻は、本社のある東京を頼りに一昨日この地を離れました。




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。